情熱のカムアラウンド

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心の感じるままに。カーリングをメインに様々なスポーツを追いかけて。駆け出しスポーツライターの人生奮闘ブログ。

2014年を振り返る〜ソチ五輪上村愛子の感動の裏に〜

 

 今年も12月に入り、残りわずかとなってまいりました。そこで、『2014年を振り返る』と題して、私なりに気になった事、感じた事を書いていこうと思います。本日は、ソチ五輪から女子モーグルを取り上げます。

 

 

「日本でご覧の皆様は、どのようにご覧になられましたでしょうか ?」

 

 ソチ五輪モーグル女子決勝の中継終了後。五輪スタジオにいたNHK工藤三郎アナウンサーは、ほんの少しの間をおいてゆっくりと第一声を発した。その口ぶりに、ほんの少しの間では切り替えの効かない感情の余韻を残して。

 

 長野五輪から5大会連続出場、競技人生の集大成として臨んだ今大会。上村愛子は渾身のパフォーマンスを見せた。特に忘れられないのが、最後の決勝3本目。今、思い出して映像を確認しても涙が抑えられなかった。斜面のコブを攻め続けた果敢なターン。高さがあったエア。そして特筆すべきは、その充実の内容を誰よりも速いタイムで駆け下りたスピード。何かが乗り移ったような神懸かった滑り、と表現しても少しも言い過ぎだとは思わない。感動的という一語で片付けるには言葉不足を感じる程の記憶に残る30秒だった。試合後、目を赤くしながらも、晴れ晴れとした表情で「清々しい」という言葉を何度も口にした彼女のインタビュー。アスリートとして目指すべき場所に到達した姿を見た気がした。

 

しかし、結果は4位。メダルにはあと一歩届かなかった。

 

 この上村愛子の滑りに多くの人が感動したと同時に、その結果は日本だけにとどまらず大きな論争を巻き起こした。なぜ、ほぼ完璧な滑りをした上村愛子が、素人目でも明らかなミスが続いた3位のハナ・カーニーより下なのか? と。 その理由は、

 

「各選手のターンの点数は、滑る前からすでに優劣がつけられていて、なおかつそのターンの点数が採点の大部分を占めているから」

という事になる。

 

 これについては、色々な場所で解説されていて、ご存知の方も多いと思うので簡潔に説明させていただく。私も後に知ったのだが、モーグルではシーズンが始まる前にジャッジクリニックなるものがあり、昨シーズンまでの成績等を参考にした各選手のターンのベース点(ノーミスで滑った場合の基準点)が決められる。そして、試合ではこのベース点からミスの度合いに従って減点していく。メダルを獲得した上位3選手は、昨シーズンまでの実績も抜群で、現在の主流であるスライドターンを使っている。つまり、3人はスタート前の時点で、上村愛子に対し大きなアドバンテージを持っていた。そして、モーグルの採点におけるターン点の配分は、全体の50%(他のエア、スピードは各25%)を占める。ジャッジの出身国に対するひいきを考慮しても、よほどの大失敗がない限り(個人的には、ハナ・カーニーのミスは大失敗に近いものだとは思うが)、上位3選手の優位は揺るがなかったのである。

 

 だからと言って、1,2位のデュフォーラポイント姉妹や3位のハナ・カーニーが責められるべきではない。競技のルールに則って、勝つ為の最大限の方法を実践する事は、勝負の定石である。彼女達は採点ルールをしっかり熟知し、ベストを尽くしたのである。真に責められるべき問題は、

 

『安全運転を許してしまう採点ルール』だ。

 

 スピードに目を向けると、上村愛子が最速タイム。そして、1,2位のデュフォーラポイント姉妹は、3位のハナ・カーニーよりも更に遅いタイムだった。ハナ・カーニーのミスの件は別にして、デュフォーラポイント姉妹のスピードを抑えて安全に滑りきる演技は、上村愛子が見せた感動とはおよそ遠いところにあるものだった。繰り返し言うが、彼女達は採点ルールをしっかり熟知し、ベストを尽くしただけだ。しかし、頑張って勝利を得たその演技は、さしたる感動が沸き起こることもなく、賞賛するに値し難いという寂しい光景だった。ただでさえ、採点競技は見た目を競う競技なのに、素人の見た目と採点ルールが大きく乖離している。そういう意味で、今モーグルという競技は大きな危機にあると思う。

 

 上村愛子の演技はなぜ、感動的だったのか? それは、限界に挑戦するアスリートの姿が見えたからではないだろうか? もし、スピードを制御できなくなれば、ターンやエアにミスが出るだろう。しかし、安全にターンを決めようとすれば、スピードが落ちる。無難にエアを決めようとすれば、高さや難易度が落ちる。安全と危険の狭間に身を置いて、限界ギリギリのスピードの中できれいなターンをし、素晴らしいエアを決める。それが、本来のモーグルという競技ではなかったか?

 

 ルールというのは、競技の面白さや健全な公平性を助ける為にあったとしても、感動を著しく阻害するものであってはならない。例えばここ最近、サッカーや野球に代表されるメジャースポーツで機械判定が導入されているが、その是非については長時間の検討を要する事がしばしばである。それは、機械判定を導入する事が、そのスポーツの面白さ、醍醐味を削がないだろうか? という不安が常につきまとうからだと私は思っている。

 

 安全運転から感動は生まれない。生まれるのは競技への失望だ。モーグルが安全運転で勝てる競技になってしまえば、間違いなく人々の興味は薄れていく。ジャッジクリニックの問題も勿論だが、せめてターン、エア、スピードの採点配分は全て同じにするべきではないだろうか? モーグルという競技が人々の心から離れてしまう事。それは見る人だけでなく、一生懸命頑張っている選手や関係者達にとっても不幸で悲しい結末なのだから。

 

「皆様はどのようにご覧になられましたでしょうか? 」

 

この言葉のもつ意味は、想像以上に重い。